早川由紀夫の火山ブログ

Yukio Hayakawa's Volcano Blog

ニセ科学批判運動の真の目的

菊池誠をリーダーとするニセ科学批判クラスタと放射能安全を強調するクラスタは、かなりの部分が重なる。ニセ科学批判クラスタがこれまで攻撃対象としてきたのは、血液型性格診断、水からの伝言、マイナスイオン、ホメオパシーなどである。既存科学の体系と対立する主張を批判する科学的な社会運動だと一見みえた。

しかしほんとうにそうだったのだろうか。科学の体系と反することを許さないも、科学の輝かしい業績を踏みつけにすることを許さないも、彼らの運動にとってつけた理由だったようにいまは思われる。彼らの真の理由そして目的は、現社会体制の維持継続を不安にさせる要因を早期につぶすことだったのだろう。

そう考えると、菊池誠をリーダーとするニセ科学批判クラスタが今回科学をかなぐり捨てて、やみくもに放射能安全を強調する側に立ったことがよく理解できる。原発こそが、ほんらい彼らがもっとも力を入れて批判すべきニセ科学だったはずだ。運転で生じる毒を始末するすべをもっていない技術なのだから。

ニセ科学批判の人たちは権威あるい当局と親和性が高い。その本質はもともと「御用」にあったとみられる。

・ニセ科学批判の総本山だったkikulog。 いま何が書いてあるか知らない。
ニセ科学批判とは何か 2011年1月5日まとめ

「集団の利益」と「個人の自由」

おたふくかぜなどの伝染病に子どもたちをさっさと感染させて免疫をつける感染パーティーがなぜいけないのかを調べていて、集団の利益という考え方に初めて接した。その病気に感染する致命的打撃を受ける弱者が社会にいるから、そのひとたちにうつさないために自分が感染してはいけないというのだ。

私は専門家でないからよくわからないが、予防接種は個人の利益より集団の利益を優先する考えに基づいて推奨されているらしい。そんなこと知らなかった。接種すると個人の利益が増進するから推奨されているのだと思っていた。集団の利益が目的なら、いま通常目にする説明では不十分だ。これは、ほとんど詐欺だと思う。

私は基本的に合理主義者だから、伝染病に関しては個人の利益より集団の利益を優先させるこの考え方にむしろ賛成だ。不満なのは、本当の理由はそこにあるのに、隠していることだ。専門家が強調しない。積極的に普及しようとしない。その結果として、学校の先生や父母が知らない。この責任は、専門家が説明責任をまっとうしてないことにすべてかかる。

従来の価値観と違っても、それが本当の理由なら正々堂々と打ち出したらどうだ。とくに学術や新聞は。

ただしホメオパシーは、伝染病と違ってフィジカルには感染しない。この違いは、集団の利益を評価するときに大きく作用する。合理的に考えれば、ホメオパシーについては個人の自由が集団の利益に優先すると私は思う。

医療従事者が集団の利益を優先して(個人の利益を犠牲にして)ホメオパシーを忌避するなら、そのことを社会に対してきちんと説明する責任を負う。少なくとも会長談話にその説明はなかった。効果がないからダメだとしか書いてない。説明責任のまっとうを怠慢して、患者個人の利益を一方的に奪うことは許されない。

医療従事者にはホメオパシーを攻撃する前にやってほしいことがある。患者予備軍への懇切丁寧な説明である。それは、一過性でなく継続的になされなければならない。北風と太陽。北風で無理やりホメオパシーを押しつぶすより、太陽で患者予備軍のこころをつかむのがよい。そうすれば、自然にホメオパシーは衰退するだろう。

私が専門とする火山災害でも、合理的に考えれば、逃げるか逃げないかの判断を下すときには集団の利益よりも個人の自由が優先されるべきだと思う。しかしいまの日本はそうなっていない。この現状を私はたいへん不満に思う。

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批判と指図

「ニセ科学批判」という語をネットでよくみる。私は、この言葉をできるだけ使わないようにしている。「批判」を「非難」とか「糾弾」に言い換えて使ったことがあるが、十分うまく表現できたとはまだ満足していない。私が言いたいことはこれだ。あなたたちがやっていることは批判の域を超えている。それは指図だ。

ひとは誰もが、自分の生き方を選ぶ権利をもっている。他者からみてそれがどんなに愚かな選択であろうとも、他者はその選択を尊重しなければならない。自分がよしとする生き方をひとに指図するのは、してはならないことである。

科学的には間違っていると承知したうえで、その現象あるいは言説を信じたり好きになることは、そしてそれを公言することは、反社会的行為でもなんでもない。認められるべきことだ。それを認めないのは、差別である。「水からの伝言」を道徳授業で取り上げるのは教師の自由だ。ホメオパシーに傾倒するのは自然主義者の自由だ。その自由を、指図によって奪おうと企図することは悪だ。

そのときのアプローチは、指図でなく懇切丁寧な説明あるいは親身の相談でなければならない。常日頃は、本を出したりイベントを催して科学を普及する活動をする。これが社会基盤をつくる。ネットの「ニセ科学批判者」がこのような地道な活動をしているようにはみえない。「周回遅れ」だの「考えてないわけではない」だの「どこそこを読め」だの言って、説明の労をとろうとしない。

ニセ科学なるものがある、信じないようにしましょう、などといくら言っても無駄だ。そんなキャンペーンはむしろないほうがよいくらいだ。いま必要とされているのは、科学とは何か、科学はどんなにおもしろいか、科学はどんなにすばらしいかを多くの人にわかってもらう体験してもらうための地道な努力だ。個別のニセ科学がいかに間違っているかを説明するページより、科学がどんなにおもしろいか自慢するページのほうが、長い目で見たら、ずっとよい社会的効果をもたらす。

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ニセ科学は定義できない

ニセ札は定義できる。なぜなら紙幣がきちんと定義できているからだ。グッチのニセモノも定義できる。なぜならグッチがきちんと定義できているからだ。しかしニセ科学は(万人が認める)定義ができない。なぜなら科学に(万人が認める)定義がないからだ。

たとえば広辞苑は科学を次のように定義している「体系的であり、経験的に実証可能な知識」この定義はそれなりの長所をもつが、そのニセモノを定義できるほど精緻な定義ではない。経験的に実証可能かどうかの判定を万人が同意するのはしばしば困難である。

定義できないニセ科学というレッテルをもちだして、「ニセ科学だからよくない」のキャンペーンを展開するのは、よくない。あまりに恣意的である。よくない理由はニセ科学とは別のところに求められなければならない。差別であるとか詐欺であるとか。

ニセ科学はすべて、科学的に間違っていると指摘するだけでことが足りる。

ニセ科学批判の風景

懐疑主義の自己矛盾

血液型性格判断は差別であるとか水伝道徳授業は不道徳であるとかの、ネットで見られる批判運動は、過去にニセ科学をスマートに批判した権威の力を借りて、個別の事例を(自分で判断することなく)そのまま丸写しで批判する行為である。だからしばしば大きく間違える。

もともとのニセ科学批判が懐疑的立場に基づいてなされたにもかかわらず、それに追随したひとたちはまったく懐疑的でない。ニセ科学批判の権威を疑うことを知らない。皮肉なものである。

科学を権威づけに使う

「恐らくはこういう主張をする人々にとって「科学」は権威であり、その科学の力を借りて、天皇家の伝統、男系維持の重要性に関する権威付けを行ないたいのであろうと思われる。125代の歴史は科学的にも重要だ、という方がただ重要だというよりももっともらしく聞こえる、とそういう主張をする人は思うのだろう。」 山田ともみ(2005) 『Y染色体と男系天皇


この意見には説得力がある。科学を権威づけに使う行為には、それが科学であろうとなかろうと不快感を禁じえない。

ニセ科学だとしてネットで批判されているもののうち水伝道徳授業とマイナスイオンは、たしかに科学を権威づけに使っている。この二つを批判するひとたちの真の目的は、これらが科学であるかないか、または科学的に正しいか間違いかの識別にあるのではない。本人たちがどこまで自覚しているかわからないが、彼らは、権威づけのために科学が使われることを嫌っているのだ。

では、血液型性格判断とホメオパシーを批判するひとたちの真の理由は何だろうか。血液型性格判断を批判する理由はおそらく、その動機あるいは背後に隠れる差別意識だろう。この批判は通俗道徳主義に立脚しているといってよい。ホメオパシーは複雑だ。詐欺と利権がうずまく魑魅魍魎の世界にみえる。

選択基準と差別

大学入試や公務員採用試験で血液型を選択基準に用いるのはもってのほかだ。合理性を欠くし、なにより公平の観点から大きな問題が生じる。大学入試は学力だけで選抜しなければならない。

では、営利企業が社員の採否を血液型で決めたらどうだろうか。営利企業だから合理性を求めなければならない義務はない。収益が上がれば不合理を選択してもかまわない。営利企業だから公平性も求められない。そもそも営利追求は自分だけに利益を誘導するしくみだから、公平の精神と相容れない。

大企業が本社玄関の受付係を募集する場合を考えてみよう。この場合は、容姿が重要な選択基準になることをみんな知っている。血液型で選別してはだめだが容姿でならよいのだろうか。それとも、受付係といえども容姿で選択してはならないのだろうか。

吉本興業の入社試験はどうだろうか(そんなものがあるかどうか知らない)。お笑いがうまいへたを選択基準にしてはいけないのだろうか。お笑いがへたな社員ばかりをやとったら、吉本興業の経営が立ち行かなくなってしまう。

学力・血液型・容姿・お笑い。ひとを選抜するときの基準にしてよいものと悪いものを決める要因はどこに求められるのだろうか。

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不思議探しか未知への探検か

先月、古い友人と居酒屋で何十年ぶりかにまとまった話をした。彼の専門は地球科学だが物理学に寄っている。地質学者よりむしろ地球物理学者というのが適当だろう。彼が言うには、「不思議を探している。不思議をみつけて、その謎を解くにはどうすればよいか考えるのが自分の仕事だ」 

彼のこの発言は、私が、「私の研究は、なに、どこ、いつ、どうやっては考えるが、なぜはあまり考えない」と話したことから派生したようだった。そのあとで、勤務先の同僚の倫理学者に聞いた。「不思議をみつけてそれを解決しようと努力していますか?」 

返ってきた答えは、「(倫理学も哲学も)不思議を探して研究している」私には意外だった。歴史学者にも聞いてみたいのだが、まだ機会がみつからない。(追記参照)

私自身は、不思議をみつけるというより、私の前に時間的空間的に大きく広がる未知をできるだけ詳しく知りたい欲求が強い。だから、誰よりも先に自分が知る(みつける)ところに喜びを感じる。それがどんな小さなことであっても、いつも内心でほくそ笑んでいる。

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科学と疑似科学の違い、そしてニセ科学

「科学と疑似科学の間には推論の方法を始めとした方法論的側面についてどんな違いが存在するだろうか」伊勢田(2003、p7) この課題は科学哲学の核心だそうだ。しかし残念ながら、狭い意味の方法論で科学と疑似科学を切り分ける企ては非現実的であると、いまの科学哲学では考えられている。ここでいう「狭い意味の方法論」は、推論の方法などをいう。査読などの社会的・制度的方法を含まない。

方法論に違いが認められないなら、科学と疑似科学は区別できないとする立場もありうる。私はその立場を取りたい。疑似科学の価値がしばしば低く評価されるのは、それが科学でないからではなく、それとは別の悪い属性がその中に混入しているからだとみる。

ただし私は、反証可能性を満たすものを科学だと定義するポパー式の切り分けに魅力を感じている。純粋な科学哲学の課題としてではなく、現実社会への応用問題だととらえれば、ポパー式の切り分けにはまだ価値があると思う。

反証可能性でうまく切り分けらない対象もある(ようだ)が、白と黒を区別するときと同じくらいのあいまいな定義として認めてよいと思う。疑似科学という概念を生かしたいと欲するなら、これは生産的な態度だ。

ここで科学についてもうひとつ別の定義を考えてみよう。「物理学のような学術を科学という」 これも悪くない定義だろう。黒の定義を「墨の色」とするのと同じやり方だ。

「反証可能性を満たす」あるいは「物理学のような」で科学を定義すると、菊池誠さんがニセ科学の事例だとして挙げたいくつかが科学の条件を満たしてしまう(ニセ科学だと言えなくなる)。たとえば血液型性格判断とホメオパシーだ。どちらも科学の側に切り分けられる。ただし間違った科学である。

ニセ科学という語に、方法論が科学とは違うという意味を持たせているひとは、じっさいには多くない。世の中で、言葉の意味を真剣に考えて使っているひとの数は残念ながら少ない。ニセ科学は間違った科学のことだと単純に理解している人が多いようだ。この言葉の提唱者である菊池誠さんと、彼にごく近い一部のブロガーが使うものを除けば、巷間に流布しているニセ科学はまぼろしである。

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科学の定義、活火山の定義

科学哲学者は、疑似科学なる概念を認めた上で疑似科学と科学の線引き問題に熱中した。いっぽう火山学者は、活火山と休火山がうまく線引きできないからと簡単にあきらめて、休火山という概念を葬った。それが行き過ぎて、死火山なる概念も専門家の間では捨てられたと了解している人までいる。おかしなことだ。

休火山も死火山も有用な概念だ。捨てるには惜しい。そもそも文化遺産である日本語を専門家の都合で勝手に葬り去ってよいものだろうか。私は、休火山と死火山の復活運動を3年前にこのブログでしたことがある。

星の王子さまは死火山も煤をはらう
休火山と死火山を葬ったのは1960年代の教科書検定

線引き問題が存在する点で、両者は似ている。私の立場はこうだ。概念が有用だと思うなら、よしんば線引きがあいまいにしかできなくても、概念をやわらかく定義して使うのがよい。

ただしニセ科学の文脈では、否定的批判の対象としてニセ科学なるものが存在すると認めるのはよろしくない。科学とニセ科学は方法論できちんと定義できないからだ。あいまいな線引きで相手を指弾するのは恣意が過ぎる。

古くからやられているように反証可能性を満たすかどうかで科学とニセ科学を(方法論で)線引きすると、不都合が生じる。ニセ科学の典型として扱われているいくつか、たとえば血液型性格判断やホメオパシーが、ニセ科学ではなく科学に切り分けられてしまう。

科研費がいう科学

歴史科学とか社会科学とか人文科学とかの言葉を目にすることがある。そこでは科学をいったいどんな意味で使っているのだろうか。

科研費は科学研究費補助金の略である。研究に対して国が出している大規模な補助金だ。大学で行われている研究がこれに依存する割合は大きい。そこに系・分野・分科・細目表というものがある。

わが国の大学で行われているおそらくすべての研究がここに一覧されている。芸術学まである。科研費がいう科学は、すべての学術を含むとみられる。もし音楽や美術の創作や表現まではいるなら、それがカバーする領域は学術より広い。

哲学や史学は、人文社会系-人文学分野の下に置かれている。人文社会系-社会科学分野-法学という表現が隣にあるから、哲学や史学を科学だとはいいたくない意識が見え隠れする。人文科学ではなく人文学と表記されているところに注目しよう。

科研費の文脈では、科学は単に学術を意味する言葉として使われているようだ。その意味で科学を用いるなら、歴史科学や人文科学という言い方はありうる。しかしこの表に隠された行間を読むと、その言い方はあんまりしっくりこないとみるコンセンサスがあるようだ。じっさいに、歴史科学と人文科学はこの表の中に現れない。社会科学はある。市民権を得ているようだ。

医学と工学と農学は、科学の語をかぶされることなくむきだしで掲げられている。上の階層にも科学の文字は見えない。自然科学という四文字はどこにも見つからず、それに当たる系が理工系と生物系に分けられているのが興味深い。このほかに、まるでゴミ箱のように「総合・新領域系」という系がある。

アメリカのNSFは、National Science Foundationの略だろう。サイエンス以外の学術にも資金提供しているのだろうか。

まとめ 科学は広い意味では学術と同義で使われることがある。狭い意味では、工学・農学・医学と並立する概念、すなわち大学理学部で行われていること、あるいは学校教科の理科で扱われていることを指す。疑似科学やニセ科学の文脈では、狭い意味で使われることが多い。

偽薬と火山のつながり

いま話題にしている偽薬と火山には、パターナリズムでつながりがあります。その視点から私は考察しています。パターナリズムは父権主義ともいいます。国家権力に代表される権威に決定権を委ねるか、個人の選択を最大限に許すかのせめぎあいです。火山の場合は防災の根幹思想にかかわります。

国が住民の命について責任を持つ。国が警報を出して住民に立ち退きを強制する。パターナリズムのしくみがいま採用されています。雲仙岳1991年噴火以来、私はこれに異を唱えています。住民の愚考権を認めたい。命より生活を大事にしたい。

偽薬を使用しない立場がなぜパターナリズムか。偽薬には薬効がないのだから使ってはいけない、心理効果の利用は認められない、とする主張がイデオロギー的であって個人の自由な選択権を奪っているからです。

私はそこに、科学至上主義による平板な人生観を認めます。ニセ科学バッシング全体がそのようなものだと思います。

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