ニセ科学とは
ニセ科学という語を以後使うなというわけではないが、それが論理的考察に耐える概念ではないことを知るべきである。提唱者とされる菊池誠さんは、ニセ科学を定義しないと述べている。定義のない概念は論理的考察で使えない。
定義がないのだから、特定の事例がニセ科学かそうでないかを問うても無意味だ。意味があるのは、特定の事例が社会的批判を向けるべき対象かそうでないかの問いである。
ただしニセ科学批判者のなかには、ニセ科学の定義を試みるひともいる。その定義は「科学を装うが科学でないもの」とされることが多い。しかし、科学でないものと定義はしてはいるが、実際のニセ科学批判者の多くは、間違いとされた科学をもニセ科学に含めている。
あるひとは、間違いとされた科学をいつまでも正しいと主張し続ける行為に注目する。おかしなことだと私は感じるのだが、学説自体ではなくそれを主張する行為をニセ科学と呼ぶのだという。科学を装った詐欺あるいはウソに対してニセ科学の呼称をもちいているというわけだ。
別のあるひとは、間違いだとわかった時点でその学説を科学から除外する。そして、間違いだとされている学説をいつまでも主張し続けると、それはニセ科学になるのだという。たしかに、こうすれば科学をニセ科学と呼んでしまう矛盾を避けることができる。しかし、間違えた科学を科学から除外するのはおかしいと私は思う。
ニセ科学は、それが社会に広まって詐欺の材料や差別の温床などになるのを防ぐ目的で、対象に貼るレッテルだ。レッテルを貼って、批判の集中砲火を浴びせることをねらう。いっぽう疑似科学(pseudoscience)は、単に、科学と似て非なるものを指す。
科学者がすべきこと
さて、科学者が自分とは異なる意見を目にしたときどうするのがよいかを考えよう。私が推奨するのは、無視することだ。つまらないことには時間を使わず、自分の研究に専念するのがよい。自分の研究をして成果をあげることが、もらった給料に見合う社会貢献になると私は考える。
もしどうしても看過できないものをみてしまったと信じるときは、それに反論するのがよい。自分の研究時間を割くだけの、あるいは研究を投げ打つだけの価値がそこにあると信じたなら、反論するのがよい。
石橋克彦さんは15年ほど前から原発震災について活発な活動を行っている。原子力発電所の設計にあたって想定されている震度が低すぎることを知ってしまった。それを正さなければならないと確信して活動を始めたのだ。
そのために、石橋さんが地震学の研究に割く時間は極端に少なくなった。共同研究者のひとりとして私はたいへん困っているが、仕方ないと思っている。いや石橋さんを応援している。原発震災を未然に防ぐことは日本社会にとって最重要課題だからだ。
私自身の体験からもうひとつ言っておきたい。自分がそれをしないと誰かが死ぬと知ったときは、自分の研究はあと回しにして、それをしたほうがよい。しないと、あとで後悔する。
科学者が自分と異なる意見を目にしたとき、時間をとってそれに反論するか、無視するかは、自分の研究と見比べたときの相対的な価値で決まる。それは個別的な問題である。研究者個人に与えられた時間は有限でとても短いのだから、その判断は真剣にしたほうがよい。
科学者でない人が、科学者にああしろこうしろと命じることは、してはならない。
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