「データ3つで標準偏差を計算するのはおかしい」とする主張を私は物理の方法と呼んで、それだけが自然を正しく記述する方法だとする立場を強く批判した(追記参照)。そういう物理の方法としては他に、「正確でない数字の前にはかならず「約」をつけなさい」「結果は有効数字で表現しなさい」が、ある。
複雑な自然をそのまままるごと研究対象にする地質学(や生態学など)は、観察結果を数量で表現することの有効性をもちろん知っている。しかし、歴史性や地理的要因のため、データ取得がしばしば思ったようにはできない。そのとき、数量的表現をあきらめる立場があろう。
しかし私はその立場をとらない。どんなに精度が悪くても、言わないより言うほうがはるかにましだと思っている。精度が悪い数量を日常的に使っていると、数字の前に「約」をつけたり有効数字にこだわることに意味が認められなくなる。すべての観測数値に誤差がある。
日本語としても、あいまいな表現を連続するより、できるだけ言い切ったほうがわかりやすい。こういう事情を斟酌できない人は、「物理帝国主義」にいまだ毒されているといわざるを得ない。自然の記述の方法、すなわち自然の見方をひとつしか知らない不幸な人だ。
物理の方法だけしか知らないと、歴史に学ぶ姿勢が欠かせない防災に支障をきたす。2000年8月の三宅島噴火のとき、政府が対応に失敗した主因はそこにあると当時指摘した。
【“物理の方法と地質学の方法”の続きを読む】
勤務先の教育学部で、必修授業「子どもと世界」を分担しています。1年生220人を前期110人、後期110人に分割して授業します。私の担当は、前期1回、後期1回です。
今年から内容を「子どもと科学 疑似科学を信じるこころ」に変更して、きょう授業しました。90分授業の前半で、まずアポロ計画を2枚のスライドで次のように説明しました。
アポロ計画
• 1969年7月、アポロ11号は月の「静かの海」に着陸した。その後1972年までに、5回にわたって宇宙飛行士が月に降り立ち、科学的調査や試料採集をした。
• しかし、これはフィクションなのではないかとする意見がある。
状況証拠
• 40年前に行ったきり、その後行ってないのはおかしい。そんな昔に、そんな高度な技術があったとは考えにくい。
• 当時は、東西冷戦だった。アメリカには、みずからの技術力をソ連にみせつけたい動機があった。
• ハリウッドで撮影したのではないか。
このあと写真を4枚、動画を1編投影して、疑惑の内容を説明しました。画像は
pdfファイルをご覧ください。
1. 階段を下りる宇宙飛行士
2. 「C」の文字
3. 欠けた十字
4. 宇宙飛行士の動き
5. はためく星条旗
そして、15分ほどの時間をとって、自分の意見を書かせました。これは試験ではないので、隣と相談してよいと告げました。
意見を書いた紙を手元に回収してから(成績評価に使います)、ひとつ一つ種明かし解説をしました。授業後半は疑似科学の話題に進みましたが、いまここで書きたいのは、学生たちの回答です。なんと108人のうち72人が、人間は月に行ってないと回答しました。ちょうど2/3です。理科専攻の学生が24人いましたが、15人が月に行ってないと回答しました。なお、この学生たちの学力は同世代の中で上から10%あたりに位置します。
行ったと答えた紙の中にも、「月に行ったのは本当だが、いくつかの写真は(おかしいから)嘘である」と書いたのがあります。投影した写真と動画はすべてNASAによる真正だったのですが。
「テレビ番組で何度も取り上げられた」とも書いてあります。考えてみれば、アポロ11号が月に着陸したのは彼らがこれまで過ごした人生の2倍も昔のことです。信じられなくても無理ないかなとも思います。授業を終えて研究室に戻り、ちょうど居合わせた4年生にも聞いたところ「行ったかどうかわかりません」という答えでした。
さてどうしたものか。後期の授業までの宿題をもらいました。
【“人間は月に行ってない 大学生の7割”の続きを読む】
ビタミンKを投与しなかった乳児が死亡したニュースに接して、
ツイッターできのう考えました。加筆しつつまとめます。
私の基本的立場は、「安全は保証されていない」です。命を絶たれるリスクを負いながら毎日毎日を積み重ねています。そういう目からすると、ビタミンKを投与しないことによる乳児死亡のリスク1/2000はそれほど大きくない。もちろん費用が小さいから対応するリスクではあるが、他に優先する何かを持っている人がそれに対応しない自由も認めたい。
「(砂糖玉がビタミンKと同じ役割をすると考えるのは)科学的に間違っている」は、どしどし言ってください。「だから信じるなとか、だから使うな」までは、言わないでください。意見陳述はよいが、指図は控えてほしいというのが私の立場です。
この立場を私がとるに至った背景には、火山災害時の避難行動をよく考えたことがあります。災害対策基本法の60条と63条、すなわち避難勧告・避難指示・警戒区域の問題を深く考えました。それの応用です。
避難することによる損失を補償することなく、公共の福祉にも無関係で、首長が住民に避難を指示できることが法に書かれていますが、憲法違反の疑いがあります。
避難が必要かどうかは公が判断すると、気象庁が2007年12月に気象業務法を改正してその態度を明確にしました。指示しないと住民は火山の危険から逃れることができないと考えたようです。私はこれに反対します。火山リスクは確率でしかいえません。たとえば60%の確率で被災するとき、避難指示を出したほうがよいでしょうか。避難が必要かどうかは、個人がかかえる仕事や生活の種類によるでしょう。人生観や家族構成にもよるでしょう。もちろん予想される被災の程度にもよります。私は、避難するかどうかは個人が決めることだと考えます。
気象庁がやるべきことは、リスクの内容をできるだけ詳しくそして定量的に住民に伝えることです。住民は、情報を得て、時間を使って考えて、自分がとるべき行動を決心します。
さて、ニセ科学にどう向き合うべきかを考えましょう。科学の専門家は、ニセ科学のどこが科学的に間違っているかを指摘するに留まるべきです。必要があると信じるなら、何度も繰り返して指摘してください。平易なことばでわかりやすく伝えてください。特定のニセ科学を信じるなと、他人の内心を指図するのはしてはならないことです。信じるか信じないかは個人の意思に任せるべきです。
【“ニセ科学にどう向き合うべきか 火山防災の目から考える”の続きを読む】