それだけなら「やれやれ」で済むが、道徳教育の教材につかわれ出した。「人間も水でできているから美しい言葉を話すようにしよう」と教えるようだ。こういう授業がダメなのは自明だが「どこが悪いの?」という先生が少なくないそうだからコワイ。
【導入】
水伝とは、江本勝さんの写真集『水からの伝言』を中核とした考え方を指す。水に「ありがとう」と言って凍らせると美しい結晶ができる。「ばか」と言って凍らせると汚い結晶になると主張する。
水伝道徳とは、それを使った道徳授業を指す。「ありがとう」と言葉をかけて凍らせた氷結晶の写真を見せたあと、人間の体の60%は水でできているのだから、友達に「ありがとう」と言いましょうと教える。一時期、一部の地域で、小学校低学年児童に対して行われたらしい。いまはあまり聞かない。
【考察】
潮田さんが水伝道徳をダメだとした結論はよいが、それを自明だとしたのはよくなかった。「「どこが悪いの?」という先生が少なくない」と現状を認識したのなら、ダメな理由を説明するべきだった。他人を新聞で非難するのだから理由を説明するのが必須だった。
上記引用の前から読むと、潮田さんはその理由を、水伝が科学的に間違っているからだと考えたようだ。しかし、それはダメな理由にならない。道徳の根拠として科学を使うことがそもそもダメだから、根拠が科学的に正しいか間違っているかは授業がダメかどうかの判断に影響しない。
水伝道徳がダメな真の理由は、その内容が非道徳的だからだ。水伝道徳は人の気持ちを考えない。音波が水の性質を変えるから、水でできている人間の性質も音波によって変わると考える。これは道徳と相容れない考え方だ。道徳を無視した考え方だ。
小学低学年向けの道徳教科書を見ると、金の斧、泣いた赤鬼、モチモチの木など、読む人の心を揺さぶる優れた童話が掲載されている。これらと比べると、水伝道徳の薄っぺらさがよくわかる。
ただしこの非道徳性が、水伝道徳を社会制度として禁止するに足る十分な理由かどうかは、まだよくわからない。私的関係においてなら、水伝道徳の授業を試みようとする同僚教諭を見たときは「止めたほうがいい」と説得してほしいと願う。
【結論】
水伝道徳がダメなのは自明ではない。理由が説明されるべきだ。水伝が科学的に間違っていることは授業がダメな理由にならない。そもそも道徳の根拠を科学に求めてはダメだ。もっと重要な理由がある。水伝道徳は人の気持ちを考えない。その非道徳性がダメなのだ。
【“水伝道徳がダメなのは自明か”の続きを読む】