経緯山口県で昨年10月、ビタミンK2シロップを摂取しなかった生後2ヵ月の乳児が頭蓋内出血で死亡した。ビタミンK2には止血効果がある。シロップにして新生児に摂取させる医療行為がごくふつうに行われているが、義務ではない。母親には拒絶する自由が認められている。
わが子にシロップを投与しなかったのは助産師の判断であり落ち度だったとして、今年8月、母親が5600万円を請求する民事訴訟を起こした。助産師は争う姿勢を見せたが、2回開かれた口頭弁論では何も審議されなかった。3回目を開くことなく、12月に和解が成立した。
内容を口外しない条件が和解の際についたという。だから和解金が支払われたか、もし支払われたならいくらだったはか明らかでない。母親は「私たちの勉強不足もあり娘は亡くなりました」と、近しい人のブログにコメントを出した。ただしこのコメントは新聞報道されていない。朝日新聞と読売新聞は、推定した根拠を示さないまま「和解金は数千万円とみられる」と書いた。
選択の自由とリスク負担安全を第一優先とするなら、設備が整った病院で、管理された出産をするのが一番だろう。しかし出産を人生と家族の一大事だととらえて、その経験を大切にしたいと念じて自然なやり方を望む母親もいる。その価値観は尊重されなければならない。ただしその選択は、リスクを取ることも意味する。万一の場合は(今回のリスクは1万分の1ではなく、4000分の1だったようだが)、自己責任で結果を受け入れる覚悟をした者にのみ、その選択が許される。
4000回にひとつの不幸がわが身に降りかかった責任を、結果を見たあとで他者に転嫁するのは卑怯だ。もし今回の責任をその助産師に問うなら、第一子のときにシロップを投与しなかった責任も同様に問わなければおかしい。うまくいったときは不問にしながら、うまくいかなかったときだけ助産師を責めるのは不合理である。助産師からみれば、二人の子どもをまったく同じに扱ったのだから。
ただし助産師にも非はあった。ビタミンK2シロップを投与してないことが検診でみつかることを恐れて、投与したと母子手帳に虚偽の記入をしたという。
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母親は、何を求めて民事訴訟を起こしたのか。納得のいかない死に方をしたわが子が、いったいどういう経緯で死んだのかを知りたいと思ったからではなかったのか。今後、このような死に方をする子どもがいなくなることを願ったからではなかったのか。口頭弁論は2回開かれたが、2回とも何も審議されなかったという。口頭弁論は公開で行われるが、何も明らかにならなかった。それなのに、なぜ「内容を口外しない」和解に同意したのか。母親は何を得たのか。日本社会はこの裁判から何を得たのか。
【“山口裁判和解の報道に接して思う”の続きを読む】
他人のツイートを参照するとき
目に入った他人のツイートに、自分にはとても賛成できない意見が書かれていることがしばしばある。そのようなとき、「あなたの意見に反対です」と書いたツイートを相手に@メンションするのは控えるべきである。ツイッターは社会の縮図だから、いろいろなひとがいる。おかしなひとには近づかないのが一番だ。
それでも、自分が意見陳述するときに他人のツイートを使いたいことがしばしば生じる。相手を賞賛するツイートなら引用して、@メンションしていっこうにかまわない。そこから出会いが始まるかもしれない。
しかし、相手のツイートを否定的に利用したいときは、公式リツイートを用いるのを勧める。公式リツイートした直後に、別ツイートとして自分の意見を書く。私は過去に、引用の形をとって私の意見も入れて@メンションしたら(非公式リツイートの前にコメントを入れたら)、返信が来てこっぴどく叱られた経験がある。
公式リツイートを利用すると、自分の意見が相手に知られる確率を小さくすることができる。相手に知られることはとくに望んでいないのだから、公式リツイートのほうがツイッターの優れた使い方だと言える。
ツイートの権利ツイッターにいったん書いたら(たとえ5秒後に削除しても)、全世界にアナウンスした事実は消えないことを全員が知るべきである。他人に知られたくないことは書くべきでない。どうしても書きたい場合は、ツイートを非公開に設定する。
いったん公開した自分の意見は、どう使われようと(それが発言者の意図に反して改変されたり、悪意の誤読が含まれていない限り)、使われ方を発言者が指図することはできない。
ありそうもないことを書いたツイートひとつだけでは、それはなかなか広まらない。同様のツイートが一定数を超えて初めて広まっていく。一方、みながありそうに思うこと・期待していることを書いたツイートは、それがたとえひとつだけでも広まっていく。
いったん広まり始めたツイートを消すことはできない。そこに間違いが含まれていても、訂正を周知させるのは著しく困難である。原ツイートを削除しても、非公式リツイートされたツイートはツイッターの中でいつまでも生き残る。
リツイートリツイートする行為には責任が伴う。リツイートして情報を拡散した行為の責任は、原ツイート者の責任ではなくリツイートした人にかかる。
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今朝の
神奈川新聞が次のように伝えた。
(神奈川)県は15日、三浦半島から県西部にかけた相模湾沿岸部の広範囲で、黒い粉じんが飛散していたことを確認したと発表した。健康被害の報告は受けていないが、県が原因を調べている。
テレビ朝日のニュースが、黒い砂の写真や分布地図を示しているのでわかりやすい。車の上に黒い砂が確認された市町は富士山から一直線に東に伸びてる。粒の大きさは0.1ミリ程度だという。謎を帯びたこの記述は、まるで古代中世に書かれた古記録の世界のようだ。
富士山の表面をつくっている黒い軽石(スコリア)の細粉が強風で飛ばされたものだろう。運搬と堆積のメカニズムは、私がいうレスの範疇にはいる。報告された0.1ミリというサイズは納得がいく。
昨日午前、
御殿場は晴れて5m/sの風が吹いた。まだ積雪がない須走あたりから砂が舞い上がったのだろう。森の木々は葉を落とし、草も枯れて、いまは地表が露出している。したがって、きのう神奈川県に降った砂の主たる構成物質は、1707年の宝永噴火で噴出してその地域の地表を覆っていたスコリアだろう。
気象庁の
ウインドプロファイラのページをみると、昨日の午前中、富士山から神奈川県にかけての高度3キロ付近の風はとても強かった。40m/sを超えた。
噴火しなくても富士山から砂が巻き上げられて関東平野に降り積もる事例が、関東平野で生活している人々の記憶に残るといい。これが何度も繰り返されれば、関東ロームが富士山の噴火で降り積もったと誤解する人はそのうちいなくなるだろう。
15日14時02分、鎌倉市城廻、神奈川県提供(アサヒコムより)
この写真から降灰量を判定すると、0.3g/m2程度だったとみられる。2009年2月2日の浅間山噴火で放出された火山灰の量は
2万4000トンだった。今回降った砂の量はその1/100から1/1000で、100トン程度だったと見積もられる。富士山麓の幅100メートル・長さ1000メートルの面積から、均一に1ミリ削り取れば生産できる。
なぜ、きのう報告されたか。そのような日常的メカニズムならいままでも頻繁に報告されていてよさそうだと考えるひともいるだろう。私の考えはこうだ。情報化が進んでreporting indexが上がり、閾値を超えたのだと思う。現象としては以前からあったが、最近になって初めてみんなに知られるようになった、と考える。
おたまじゃくしが空から降る現象も、去年から広く知られるようになった。どうやら各地で毎年ふつうに起こっている現象らしいことがわかってきた。今年もニュースになった。ニュースとして取り上げられると人々の注目がそこに集中するから、報告件数が増える。
9月に書いた関連記事 「
関東ロームは富士山の噴火堆積物ではない」
【“神奈川県に黒い砂が降った”の続きを読む】
親権を一時停止する法案がまとまった(読売新聞朝刊)。これまでは、親権「喪失」しかなかった。一時停止の仕組みがこれに加わる。児童虐待の問題に、裁判所がもっと積極的にかかわったほうがよいとする判断が反映されている。虐待事例をみつけた児童相談所は、これまでよりずっと気軽に親権停止の申し立てを裁判所に行うことできるようになる。
山口で、ビタミンKが投与されないまま脳出血で死亡した乳児の事例を考えてみよう。乳児はビタミンKの投与不投与を判断できないから、助産師が勝手に不投与を決めてはならない(投与が必須だった)とする論がある。しかしこの論は、親権をもつ母親の存在を忘れている。そのとき投与不投与を判断する全権は母親のもとにあった。
ビタミンK投与は標準医療だから、それを怠った助産師に重大な責任があるとする論がある。助産師に責任を負わせるだけでこれをすませてよいだろうか。ビタミンK投与が標準医療であって、それは(親権者が意図して拒絶する場合を除いて)すべての乳児に施されなければならない処置だというなら、社会は、それを確実に行うための仕組みをつくる責任を負う。たとえば、1)母子手帳にビタミンK投与日を書く欄を設ける、2)保健婦が母子に面会したらまず初めにビタミンK投与の有無を確認する、など複数の関所を設けた形状管理が必要だ。
山口で使われてる母子手帳にビタミンK投与日を書く欄があるかどうか調べてないが、もしあれば、そこがなぜ空欄なのか母親はいぶかしく思っただろう。ビタミンKを何のために投与するかも母子手帳に説明してあるとよい。(追記参照)
山口の事例ではないのだろうが、「あの助産院はビタミンKを投与してないのよ」といった噂が保健所内で語られることがあるという。専門機関が知っていても放置している実態がここにある。親権の一時停止法案と同様の考え方で、乳児にビタミンKを確実に投与する社会的仕組みを急いで整える必要がある。
【“親権一時停止とビタミンK不投与問題”の続きを読む】
先月、古い友人と居酒屋で何十年ぶりかにまとまった話をした。彼の専門は地球科学だが物理学に寄っている。地質学者よりむしろ地球物理学者というのが適当だろう。彼が言うには、「不思議を探している。不思議をみつけて、その謎を解くにはどうすればよいか考えるのが自分の仕事だ」
彼のこの発言は、私が、「私の研究は、なに、どこ、いつ、どうやっては考えるが、なぜはあまり考えない」と話したことから派生したようだった。そのあとで、勤務先の同僚の倫理学者に聞いた。「不思議をみつけてそれを解決しようと努力していますか?」
返ってきた答えは、「(倫理学も哲学も)不思議を探して研究している」私には意外だった。歴史学者にも聞いてみたいのだが、まだ機会がみつからない。(追記参照)
私自身は、不思議をみつけるというより、私の前に時間的空間的に大きく広がる未知をできるだけ詳しく知りたい欲求が強い。だから、誰よりも先に自分が知る(みつける)ところに喜びを感じる。それがどんな小さなことであっても、いつも内心でほくそ笑んでいる。
【“不思議探しか未知への探検か”の続きを読む】
「科学と疑似科学の間には推論の方法を始めとした方法論的側面についてどんな違いが存在するだろうか」
伊勢田(2003、p7) この課題は科学哲学の核心だそうだ。しかし残念ながら、狭い意味の方法論で科学と疑似科学を切り分ける企ては非現実的であると、いまの科学哲学では考えられている。ここでいう「狭い意味の方法論」は、推論の方法などをいう。査読などの社会的・制度的方法を含まない。
方法論に違いが認められないなら、科学と疑似科学は区別できないとする立場もありうる。私はその立場を取りたい。疑似科学の価値がしばしば低く評価されるのは、それが科学でないからではなく、それとは別の悪い属性がその中に混入しているからだとみる。
ただし私は、反証可能性を満たすものを科学だと定義するポパー式の切り分けに魅力を感じている。純粋な科学哲学の課題としてではなく、現実社会への応用問題だととらえれば、ポパー式の切り分けにはまだ価値があると思う。
反証可能性でうまく切り分けらない対象もある(ようだ)が、白と黒を区別するときと同じくらいのあいまいな定義として認めてよいと思う。疑似科学という概念を生かしたいと欲するなら、これは生産的な態度だ。
ここで科学についてもうひとつ別の定義を考えてみよう。「物理学のような学術を科学という」 これも悪くない定義だろう。黒の定義を「墨の色」とするのと同じやり方だ。
「反証可能性を満たす」あるいは「物理学のような」で科学を定義すると、菊池誠さんがニセ科学の事例だとして挙げたいくつかが科学の条件を満たしてしまう(ニセ科学だと言えなくなる)。たとえば血液型性格判断とホメオパシーだ。どちらも科学の側に切り分けられる。ただし間違った科学である。
ニセ科学という語に、方法論が科学とは違うという意味を持たせているひとは、じっさいには多くない。世の中で、言葉の意味を真剣に考えて使っているひとの数は残念ながら少ない。ニセ科学は間違った科学のことだと単純に理解している人が多いようだ。この言葉の提唱者である菊池誠さんと、彼にごく近い一部のブロガーが使うものを除けば、巷間に流布しているニセ科学はまぼろしである。
【“科学と疑似科学の違い、そしてニセ科学”の続きを読む】
科学哲学者は、疑似科学なる概念を認めた上で疑似科学と科学の線引き問題に熱中した。いっぽう火山学者は、活火山と休火山がうまく線引きできないからと簡単にあきらめて、休火山という概念を葬った。それが行き過ぎて、死火山なる概念も専門家の間では捨てられたと了解している人までいる。おかしなことだ。
休火山も死火山も有用な概念だ。捨てるには惜しい。そもそも文化遺産である日本語を専門家の都合で勝手に葬り去ってよいものだろうか。私は、休火山と死火山の復活運動を3年前にこのブログでしたことがある。
・
星の王子さまは死火山も煤をはらう・
休火山と死火山を葬ったのは1960年代の教科書検定線引き問題が存在する点で、両者は似ている。私の立場はこうだ。概念が有用だと思うなら、よしんば線引きがあいまいにしかできなくても、概念をやわらかく定義して使うのがよい。
ただしニセ科学の文脈では、否定的批判の対象としてニセ科学なるものが存在すると認めるのはよろしくない。科学とニセ科学は方法論できちんと定義できないからだ。あいまいな線引きで相手を指弾するのは恣意が過ぎる。
古くからやられているように反証可能性を満たすかどうかで科学とニセ科学を(方法論で)線引きすると、不都合が生じる。ニセ科学の典型として扱われているいくつか、たとえば血液型性格判断やホメオパシーが、ニセ科学ではなく科学に切り分けられてしまう。
歴史科学とか社会科学とか人文科学とかの言葉を目にすることがある。そこでは科学をいったいどんな意味で使っているのだろうか。
科研費は科学研究費補助金の略である。研究に対して国が出している大規模な補助金だ。大学で行われている研究がこれに依存する割合は大きい。そこに
系・分野・分科・細目表というものがある。
わが国の大学で行われているおそらくすべての研究がここに一覧されている。芸術学まである。科研費がいう科学は、すべての学術を含むとみられる。もし音楽や美術の創作や表現まではいるなら、それがカバーする領域は学術より広い。
哲学や史学は、人文社会系-人文学分野の下に置かれている。人文社会系-社会科学分野-法学という表現が隣にあるから、哲学や史学を科学だとはいいたくない意識が見え隠れする。人文科学ではなく人文学と表記されているところに注目しよう。
科研費の文脈では、科学は単に学術を意味する言葉として使われているようだ。その意味で科学を用いるなら、歴史科学や人文科学という言い方はありうる。しかしこの表に隠された行間を読むと、その言い方はあんまりしっくりこないとみるコンセンサスがあるようだ。じっさいに、歴史科学と人文科学はこの表の中に現れない。社会科学はある。市民権を得ているようだ。
医学と工学と農学は、科学の語をかぶされることなくむきだしで掲げられている。上の階層にも科学の文字は見えない。自然科学という四文字はどこにも見つからず、それに当たる系が理工系と生物系に分けられているのが興味深い。このほかに、まるでゴミ箱のように「総合・新領域系」という系がある。
アメリカのNSFは、National Science Foundationの略だろう。サイエンス以外の学術にも資金提供しているのだろうか。
まとめ 科学は広い意味では学術と同義で使われることがある。狭い意味では、工学・農学・医学と並立する概念、すなわち大学理学部で行われていること、あるいは学校教科の理科で扱われていることを指す。疑似科学やニセ科学の文脈では、狭い意味で使われることが多い。