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早川由紀夫の火山ブログ

Yukio Hayakawa's Volcano Blog

住居選択の自由と、個人の責任・国の責任

新たに土地を購入しようとするとき、地盤の良し悪しなどの災害耐性を最優先の判断基準にするひとはほとんどいない。交通・日当たり・眺望・騒音などの環境をより重要視する。めったに起こらない災害リスクよりも、毎日の利便や快適を優先するのは、きっと正しい判断なのだろう。

災害リスクへの対応を後回しにして毎日の利便や快適を優先するのは個人の嗜好・価値観だから、いざ災害が起こったときに損失補償を国など他者に求めるのは理屈に合わない。

いま国民に選択の自由を許していることで、国は自然災害による損失を補償しない根拠を確保している。もし国が選択の自由を一部でも制限したなら、災害が起きたとき国は国民に損失補償しなければならなくなる。

港まで遠い高台から下りて、津波に対して脆弱な海岸に居を移すのは個人の自由だ。地震と水害に脆弱な大都市に住んでファッショナブルな生活を追い求めるのも個人の自由だ。ただし何世代かのうちには必ず自然の猛威によって手ひどい災害を受ける。そのときの結果責任は、国に頼ることなくすべて自分で引き受けてほしい。漁に便利な住居を得た、ファッショナブルな生活を送ったつけをちゃんと払ってほしい。

もし個人が責任引き受けられないというなら、国が選択の自由を国民から奪って大規模な立ち退きを命じ、災害に強い都市や漁村にすっかりつくり変える根拠がそこに生まれる。はたして、それを断行するだけの政治力がいまの日本にあるかどうか疑問ではあるが。

現状は、国がそこまでの指導力を発揮することができず、国民の選択の自由を認めたかたちになっている。しかし国民は、残念ながら自分で責任をとれるだけ十分には成熟していない。日本にはそれなりの経済力があるが、日本人は依存体質から脱却できていない。

幸いまだ大きな災害が起こってないから、このボタンの掛け違いは露見していない。1995年1月の神戸の地震のとき少し社会問題化したが、すぐに忘れられてしまった。

コメント

忘れていた物

ツイートの紹介から、ここを参照しました。

同じようなことを、中国の現状を見ながら考えていました。

でも文の締めくくりは...。まさに今となってはその通りです。
今の地震、原発。どちらも専門家は、その昔声を上げられていたようです。でも、その声は、一般の人には届かなかった。

国の責任、個人の責任。
日本人の知識レベルからすれば、正しい情報があれば、個人がすべての責任を取ることも十分可能だと思います。

そして、そのためには国が...。

今こそ、この議論を前に進めないと行けないですね。

  • 2011/06/23(木) 11:29:54 |
  • URL |
  • Yeas2011 #-
  • [ 編集]

日本人は依存体質から脱却できていない

本当にその通りだと思います。

津波の被害でも、ハザードマップで指定された避難所に逃げた人が亡くなり、個人の判断でより安全な場所を選んで避難した人が助かった例があります。

他の災害とは違い、放射性物質は人間が五感で感知する事はできません。
こちらのブログのような形で情報を開示して頂けるのは大変ありがたく思っています。

情報は多方面からありますが、その中から信用でき、かつ整合性のあるものを判断するのも「自分」。

その後どう行動するか決断するのも「自分」(あるいは家族)。

他人の判断に自分の財産や命や子ども達の将来を預ける気はありません。

自分の行動をどうするか他人に判断を委ねる首都圏の住民も、「作るな」と言われなければ作付してしまう福島の農家も、根っこは同じな気がします。

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