早川由紀夫の火山ブログ

Yukio Hayakawa's Volcano Blog

科学と疑似科学の違い、そしてニセ科学

「科学と疑似科学の間には推論の方法を始めとした方法論的側面についてどんな違いが存在するだろうか」伊勢田(2003、p7) この課題は科学哲学の核心だそうだ。しかし残念ながら、狭い意味の方法論で科学と疑似科学を切り分ける企ては非現実的であると、いまの科学哲学では考えられている。ここでいう「狭い意味の方法論」は、推論の方法などをいう。査読などの社会的・制度的方法を含まない。

方法論に違いが認められないなら、科学と疑似科学は区別できないとする立場もありうる。私はその立場を取りたい。疑似科学の価値がしばしば低く評価されるのは、それが科学でないからではなく、それとは別の悪い属性がその中に混入しているからだとみる。

ただし私は、反証可能性を満たすものを科学だと定義するポパー式の切り分けに魅力を感じている。純粋な科学哲学の課題としてではなく、現実社会への応用問題だととらえれば、ポパー式の切り分けにはまだ価値があると思う。

反証可能性でうまく切り分けらない対象もある(ようだ)が、白と黒を区別するときと同じくらいのあいまいな定義として認めてよいと思う。疑似科学という概念を生かしたいと欲するなら、これは生産的な態度だ。

ここで科学についてもうひとつ別の定義を考えてみよう。「物理学のような学術を科学という」 これも悪くない定義だろう。黒の定義を「墨の色」とするのと同じやり方だ。

「反証可能性を満たす」あるいは「物理学のような」で科学を定義すると、菊池誠さんがニセ科学の事例だとして挙げたいくつかが科学の条件を満たしてしまう(ニセ科学だと言えなくなる)。たとえば血液型性格判断とホメオパシーだ。どちらも科学の側に切り分けられる。ただし間違った科学である。

ニセ科学という語に、方法論が科学とは違うという意味を持たせているひとは、じっさいには多くない。世の中で、言葉の意味を真剣に考えて使っているひとの数は残念ながら少ない。ニセ科学は間違った科学のことだと単純に理解している人が多いようだ。この言葉の提唱者である菊池誠さんと、彼にごく近い一部のブロガーが使うものを除けば、巷間に流布しているニセ科学はまぼろしである。


【追記】

科学と疑似科学に線引きしようとした試みがすべて失敗したのなら、疑似科学(ニセ科学)のレッテルを貼って対象の評価を落とそうとする企ては科学的な行為だといえない。疑似科学(ニセ科学)であることを理由に対象を指弾するのはよくない。その対象に含まれる詐欺や差別や不道徳の行為を指弾するのならよい。

創造説は間違い。これだけでいいではないか。なにもニセ科学のレッテルを貼って、方法論をおとしめる必要はなかろう。そもそも創造説は、結論はともかくその方法論がおとしめるべき劣悪愚劣なものかどうか、私には確信がもてない。血液型性格判断もホメオパシーもそうだ。

ニセ科学という語を使うのはあきらめて、その代わり「悪い科学」と言ったらどうだろうか。通常科学には、「良い科学」とか「成功した科学」の名を用意する。

コメント

間違った科学とニセ科学

最近、NASAの研究者らが「砒素で生きる細菌」についての研究を発表しました。しかし、この研究は間違っているという批判がなされています。詳しくは、以下のリンク先を確認してください。

「砒素で生きる細菌」に疑問の声
http://wiredvision.jp/news/201012/2010120923.html

将来、この研究は間違っていたと結論されたとしましょう。その場合、当初の「砒素で生きる細菌」についての研究は、「間違った科学」ということになります。さて、

>世の中で、言葉の意味を真剣に考えて使っているひとの数は残念ながら少ない。ニセ科学は間違った科学のことだと単純に理解している人が多いようだ。

とのことですが、仮に将来、追試によって「間違った科学」とされた場合、「砒素で生きる細菌」の研究はニセ科学であると、多くの人は理解するのでしょうか。

私はたまたま脚気の科学史に興味があります。ご存じのように、脚気の原因はビタミンB1欠乏が原因なのですが、それが確定するまでは細菌説や米毒説などがありました。私の知る限り、脚気細菌説や米毒説を、「ニセ科学」だとしている人はいません。けれども、私が知らないだけで、多くの「ニセ科学は間違った科学のことだと単純に理解している人」は、脚気細菌説をニセ科学だと思っているのでしょうか。

「ホメオパシー」「血液型性格診断」「創造科学」「水からの伝言」と、「脚気細菌説」「砒素で生きる細菌説(将来反証されたとして)」は、それぞれ異なる特徴を有しており、ゆえに、前者はニセ科学とされ、後者はニセ科学とされていません。それとも、両者は区別できないと、早川さんはお考えでしょうか?

  • 2010/12/14(火) 19:53:30 |
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  • NATROM #-
  • [ 編集]

> 仮に将来、追試によって「間違った科学」とされた場合、「砒素で生きる細菌」の研究はニセ科学であると、多くの人は理解するのでしょうか。

私は間違った科学だと認識しますが、世の多くの人は間違った科学でもあるしニセ科学でもあると認識するでしょう。ニセ科学と間違った科学の区別がつかないでしょう。世の多数派がもつ科学に対する認識の深さや興味関心の程度はその程度のものです。


> 私が知らないだけで、多くの「ニセ科学は間違った科学のことだと単純に理解している人」は、脚気細菌説をニセ科学だと思っているのでしょうか。

これも、世のほとんどの人が間違った科学でもあるしニセ科学でもあると認識するでしょう。


> 「ホメオパシー」「血液型性格診断」「創造科学」「水からの伝言」と、「脚気細菌説」「砒素で生きる細菌説(将来反証されたとして)」は、それぞれ異なる特徴を有しており、ゆえに、前者はニセ科学とされ、後者はニセ科学とされていません。それとも、両者は区別できないと、早川さんはお考えでしょうか?

反証可能性で切り分けると次のようになると考えます。

▼科学(ただし間違い)
「脚気細菌説」「砒素で生きる細菌説(将来反証されたとして)」「ホメオパシー」「血液型性格診断」「創造科学」
▼保留
「水からの伝言」
▼ニセ科学
上記例にはないが「マイナスイオン」

「水からの伝言」については判断を留保しますが、例示された残りの5つは方法論では区別できないと考えます。5つともすべて科学です。

ただし、使い方によっては社会に害毒をまき散らすものが含まれています。その属性に着目して、それらを取り出してグルーピングして悪い科学と呼ぶのはよいでしょう。そのグループをニセ科学と呼ぶのは正しい日本語ではありません。科学を、科学のニセモノすなわち科学ではないとするのは不正です。

  • 2010/12/14(火) 20:55:30 |
  • URL |
  • 早川由紀夫 #eWKQhjJU
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twitterを見ていない人にとっては、「”狭い意味”の方法論」という表現がどのようなものを指すのかがはっきりわかると、その後も読みやすい気がします。

方法論のレベルで区別するための考え方は、反証可能性のほかにもたくさんあるらしいですが、それらも早川先生のおっしゃる、「狭い意味の方法論」にはあたらないのかもしれません。

ただ、現実的には、「”反証”されたのに、まだ正当な理論のような素振りをする、ストーカーみたいなのがニセ科学」という考え方もありえるのではないでしょうか?こう考えれば、脚気は科学で砒素は未定。それ以外はニセ科学ということになります。

科学は、「方法論・社会的制度・それらによって得られた結果」の3つを指しえるという印象を持っていますが、上の例は結果のニセモノと言えると思います。

  • 2010/12/15(水) 01:19:17 |
  • URL |
  • hatp7b #-
  • [ 編集]

ご意見ありがとうございます。

「”狭い意味”の方法論」が指すものについて、本文に加筆しました。第一段落末尾です。

ストーカーみたいであることを理由に科学でないと判定するのには、同意しません。

「結果のニセモノ」の表現は同意できません。「間違った結果を得てしまった科学」と言いたい。結果が間違っていたのを次々と科学から外すやり方は、生産的でないと思います。時間が進むにつれて、科学が指すものが変わってしまいます。

  • 2010/12/15(水) 06:40:13 |
  • URL |
  • 早川由紀夫 #eWKQhjJU
  • [ 編集]

反証を拒絶もしくは無視して、科学的正当性を主張しつづけるものをニセ科学ときめるのは、ひとつの考え方に過ぎないので、同意されない方も当然いらっしゃると思います。

「結果のニセモノ」に関しては、科学とニセ科学の区別ではなく、ニセ科学という言葉の使い方の問題を意図しておりました。
例えば、「科学的事実」や「科学的知見」という言葉は、科学的な手法によって導かれ、それによってある程度の妥当性を保証された、というニュアンスを含みます。このような言葉の使い方を想定して、”結果”と呼びました。手法はともかく、時代によって科学的事実・知見が変わるのは、自然なことではないでしょうか。

  • 2010/12/15(水) 19:31:34 |
  • URL |
  • hatp7b #-
  • [ 編集]

> 「結果のニセモノ」に関しては、科学とニセ科学の区別ではなく、ニセ科学という言葉の使い方の問題を意図しておりました。

その意図でしたら、ウソ科学という言い方を思いつきます。私の発明ではありません。誰かが言った(書いた)のを聞いた(見た)記憶があります。

> 手法はともかく、時代によって科学的事実・知見が変わるのは、自然なことではないでしょうか。

そういう見方もあるようですね。科学の成果は時間変化しない未来永劫真理であり続けるとつい期待してしまいますが、科学の歴史をひも解くと、そう期待するのは安易かもしれません。

  • 2010/12/15(水) 20:17:29 |
  • URL |
  • 早川由紀夫 #eWKQhjJU
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