早川由紀夫の火山ブログ

Yukio Hayakawa's Volcano Blog

批判と指図

「ニセ科学批判」という語をネットでよくみる。私は、この言葉をできるだけ使わないようにしている。「批判」を「非難」とか「糾弾」に言い換えて使ったことがあるが、十分うまく表現できたとはまだ満足していない。私が言いたいことはこれだ。あなたたちがやっていることは批判の域を超えている。それは指図だ。

ひとは誰もが、自分の生き方を選ぶ権利をもっている。他者からみてそれがどんなに愚かな選択であろうとも、他者はその選択を尊重しなければならない。自分がよしとする生き方をひとに指図するのは、してはならないことである。

科学的には間違っていると承知したうえで、その現象あるいは言説を信じたり好きになることは、そしてそれを公言することは、反社会的行為でもなんでもない。認められるべきことだ。それを認めないのは、差別である。「水からの伝言」を道徳授業で取り上げるのは教師の自由だ。ホメオパシーに傾倒するのは自然主義者の自由だ。その自由を、指図によって奪おうと企図することは悪だ。

そのときのアプローチは、指図でなく懇切丁寧な説明あるいは親身の相談でなければならない。常日頃は、本を出したりイベントを催して科学を普及する活動をする。これが社会基盤をつくる。ネットの「ニセ科学批判者」がこのような地道な活動をしているようにはみえない。「周回遅れ」だの「考えてないわけではない」だの「どこそこを読め」だの言って、説明の労をとろうとしない。

ニセ科学なるものがある、信じないようにしましょう、などといくら言っても無駄だ。そんなキャンペーンはむしろないほうがよいくらいだ。いま必要とされているのは、科学とは何か、科学はどんなにおもしろいか、科学はどんなにすばらしいかを多くの人にわかってもらう体験してもらうための地道な努力だ。個別のニセ科学がいかに間違っているかを説明するページより、科学がどんなにおもしろいか自慢するページのほうが、長い目で見たら、ずっとよい社会的効果をもたらす。


「シロップを投与しなければならない」これは指図。「水伝を道徳授業で取り上げてはいけない」これも指図。「血液型を採用基準にしてはいけない」これも指図。有名な「ニセ科学批判」で指図でないものがみつからない。

有名な「ニセ科学批判」を指図ではなく批判で書いてみよう。「シロップを投与しなかったなんてシンジラレナイ。なんてオソマツな」「水伝を道徳授業でやる先生に私の子どもは預けられない」「血液型を採用基準にするような会社には就職しない」 これらはすべて指図ではなく批判だ。まったく問題ない。

批判は言論の自由に守られているが、指図には責任が伴う。そこが違う。ただし不当な指図には従わない自由が残されている。

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