昨晩のNHKテレビ特報首都圏は、ふだんの25分枠を50分拡大したスペシャルでした。中越地震から2年たって復興の努力を続ける被災地からの報告でした。
地震から2年たって、まだ多くの人が仮設住宅に住んでいることを知りました。山古志の子どもたちは、仮設住宅に住み、近くの学校の教室を借りて、そこでまとまって授業を受けています。春には二校合同運動会を開催したという。一週間後には山古志に新しく建設した校舎で授業を始めるという。仮設住宅での不便な生活に終止符が打てるそうです。
この報告をみて6年前の三宅島を思い出しました。2000年9月、島を脱出してきた全住民は代々木のオリンピックセンターで2、3泊したあと、都営住宅などの空き部屋をあてがわれました。住民はばらばらになりました。あの時点で避難が長期化する明確な証拠はありませんでしたが、当局が前提とした短期で終わる証拠もありませんでした。コミュニティを分断する分散居住は避けるべきだったのですが、住民は当局に言われるがままに空き部屋に移動しました。
全島民脱出の数日前、島の子どもたちはまとまって東京都西部の秋川高校に避難しました。そこで寮生活を始めました。島の子どもたち一緒の授業でした。小学校低学年にとって、無理やり親から引き離されて寮生活を続けるよう強いられたことはさぞかしつらかったでしょう。これはこれで大問題ですが、ここでは考察しません。
子どもたちへのこの処置も、避難は短期で終わるだろうという希望的観測に基づくものでした。当初は9月末までの1ヶ月のつもりでした。しかし避難は長引きました。結局子どもたちは、ばらばらに居住する親元に、ひとり二人と徐々に引き取られていきました。
これを放置したことが、三宅村にとって決定的な失敗だったと私は考えます。子どもを親の元に返すのではなく、親が子どものそばに集まるべきだった。秋川高校の広いグラウンドに仮設住宅を建ててそこにまとまって住むべきだった。そして、三宅村の学校を継続すべきだったと思います。
この提案を私は、理由をつけて具体的に複数の方法で当事者に伝達しました。しかし残念なことに、村人はだれひとり重い腰を上げませんでした。代々木のオリンピックセンターのときはどさくさで、あれよあれよという間のできごとだったので仕方ないでしょうが、このときは考える時間が十分あった。やろうと思えばできた。
あのとき秋川高校に仮設住宅を建てて集中居住していれば、そのあと4年も続いた避難生活はもっと短縮できただろうと思います。島に帰ってからの復興ももっとうまくできたでしょう。
災害対策は、地域コミュニティを守ることが最優先されるべきです。それなくしてなにをしても、対策したことになりません。