早川由紀夫の火山ブログ

Yukio Hayakawa's Volcano Blog

鎌原村てんでんこ

天明三年七月八日、浅間山噴火によって鎌原村は土石なだれにすっかり埋まった。村人の8割を超える477人が死亡して、観音堂の階段を駆け上がった93人だけが助かったとされるが、実際には93人全員が観音堂に駆け上がって助かったのではなく、村の外に出かけていたために命を落とさずにすんだ人もいたようだ。

家長との続柄を記した家単位の死亡者名簿はすでに活字になっているが、今回、鎌原村で月に2回おこなわれている回り念仏で正面に飾られている掛け軸に、死亡者の続柄だけでなく年齢も書いてあることに気づいた。年齢がわかったことによって家族構成がはっきりして、その日その時刻に鎌原村でみられただろう避難行動を具体的に想像できるようになった。

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鎌原村死者477人の年齢入り掛け軸(部分)

生存者名簿は、飢人夫食拝借小前割帳が活字になっている(ここでは、児玉ほか1989東大出版会10-12を利用した)。ただし家代表の名前しかわからない。代表以外の名前と年齢と続柄はわからない。代表の年齢もわからない。

被災当日、鎌原村には96家があった。70家は全滅したが、17家で2人以上が助かった。なんらかの緊急避難行動を取ったのだろう。三陸海岸に伝わる津波てんでんこと同じことが実行に移されたとみられる。17家のうち3家で全員が助かったが、残りの14家では死亡者が出た。なお単独生存者9人は被災時に村を離れていたために助かったとみなして、ここでは考察しない。

爆発があった柳井沼から鎌原村まで 8 km。村人は大きな爆発音を聞いたはずだ。土石なだれがこの区間を 120 km/hで走ったとすると、村民に与えられた猶予時間は4分。近づく土石なだれが鎌原村の大地をしだいに大きく震わせた。前夜、浅間山の上に高く昇った噴煙から無数の火石が飛び散るのを見たばかりだった村人は、その正体はわからないながら、あるいは正体がわからないからこそ、文字通り命にかかわる恐怖を感じたことだろう。

大部分の村人は異変を感じても避難行動に移らなかった。そして一家全滅した。少数の村人が異変を感じてすぐ避難行動に移った。その多くは観音堂を目指した。ただし、高所にあるからの理由で観音堂を目的地に定めたとは限らないだろう。土石なだれは谷を越えて南から直線的に襲ってきた。観音堂がある10mの高台が自分の命を助けてくれると当時の村人が判断できたとは思えない。正体不明の恐怖から逃れるために、ただ観音様のお側に寄ろうとしただけではなかろうか。

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空から見た現在の鎌原村。観音堂は画面右下にある。

異変を感じてすぐ避難行動に移った、つまり三陸地方で津波から逃れるすべとして伝わるてんでんこした17家それぞれの構成員の生死とその後を以下に書く。

▼家3、場所不明
清之丞(~40)と5人が助かった。兄嫁はつ(42)のみ死亡した。異変を感じてこの家は全員で観音堂に向かって逃げたのだろう。はつはよその家に行ってたのだろう。十二月二十三日に家を新造した。

▼家4、観音堂から本通りに出て左に5軒目、西側
平太夫(72)、妻つや(68)、弟仙助(58)、姪つぢ(63)の4人は死亡した。息子の三右衛門(~45)と4人が助かった。若い者たちだけが助かったようだ。三右衛門は、十二月二十三日に家を新造した。

▼家5、場所不明
妻まき(29)と子供二人(6、6)が死亡した。八蔵(~35)と5人が助かった。八蔵は十二月二十三日に家を新造した

▼家6、観音堂から本通りに出て左に2軒目、西側
伯母のなつ(71)だけ死亡。市之丞と4人が助かった。十二月二十三日に家を新造した(市助)。

▼家7、村の北端、東側。
治郎左衛門(61)だけ死亡。息子の与七(~35)と7人が助かった。与七は十二月二十三日に家を新造した。

▼家8、村の北端から2軒目、東側。
祖母たつ(71)と娘まん(9)が死亡。八弥と4人が助かった。

▼家17、観音堂から本通りに出て左に6軒目、東側。
甚兵衛(65)ほか5人が死亡。息子の長治郎(~38)と3人が助かった。甚兵衛の妻よし(57)と嫁ぶん(30)が、観音堂の石段下まで逃げてきたが間に合わなくて土石に埋まってしまった二人だと思われる。助かった3人は長治郎の妻(~32)と子供2人だろう。長治郎は与七は十二月二十三日に家を新造した。

▼家27、場所不明
半兵衛(~50)ともうひとりが助かった。半兵衛は妻ゆわ(46)と子供4人(15、10、6、3)を失った。半兵衛は百姓代となる。十二月二十三日に家を新造した。

▼家68、延命寺の南2軒目
治郎右衛門(~55)と男1人が助かった。治郎右衛門は妻せん(48)と息子武三郎(17)と2人を失った。十二月二十三日に家を新造した。

▼家72、観音堂から本通りに出て左に6軒目、西側
市太郎(~30)と7人が助かった。市太郎の妻と子供も助かったとみられる。作左衛門(69)と4人が死亡した。市太郎は組頭になった。十二月二十三日に家を新造した。

▼家74、 諏訪大明神の南隣
杢右衛門(~30)とひとりが助かった。杢右衛門は妻さい(22)と娘かや(2)と1人を失った。杢右衛門は十月二十四日に新しい妻をもらった。

▼家76、場所不明
半之丞(59)と息子萬之助(30)と娘さよ(13)が死亡した。娘ふよ(~20)と男ひとりが助かった。

▼家77、諏訪大明神の北隣
源兵衛(65)、妻まつ(63)、息子幸七(48)、嫁はつ(39)が死亡した。息子伊之助(~40)と男ひとりが助かった。

▼家87、場所不明
惣兵衛(63)と息子竹松(18)が死亡した。妻よく(~55)と女ひとりが助かった。

▼家94、場所不明
千右衛門と2人が助かった。十二月二十三日に家を新造した。

▼家95、場所不明
伊八と2人が助かった。十二月二十三日に家を新造した。

▼家96、場所不明
杢兵衛とひとりが助かった。


てんでんこ17家のうち9家を鎌原村の地図にみつけることができた。家の位置が特定できた生存者は93人のうち47人である。複数が助かった家は観音堂の近くに位置していたことがわかる。ただし、村の北端にあった家7と家8で13人が助かっている。この人たちが観音堂に駆け上がって助かったとみるには遠すぎる。延命寺に駆け上がったのだろうか。

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この地図のオリジナルは、山崎金兵衛が安政七年(1860年)にまとめた『浅間山焼荒之曰並其外家並名前帳』にある。観音堂に残っていた宝暦十二年(1762年)の棟札にある寄進者名簿から作成したらしいが、詳細は不明。写しが複数あるが、読売新聞1979年8月16日に掲載された図がわかりやすいので使用した。

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複数が助かった9家と観音堂

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複数の生存者がいた家。青ハイライトが生存者。

まだ不明な点
・掛軸に書かれた死者の順はどうやって決められたのか。複数の生存者があった家が先に来ている(家3から家8)。ただし、8人が助かって被災後に組頭になった市太郎の家(被災時の家長は作左衛門)は、ずいぶん後ろにある(家72)。
・宝暦十二年(1762年)の寄進者名簿の順は何か。
・山崎金兵衛は安政七年(1860年)に村の地図をどうやって描いたか。

このエントリの著者は、早川由紀夫・井上雄斗。

コメント

鎌原村の地図、名主(ですよね?)の鎌原要右ェ門さんの家が見当たりませんが、どこだったんでしょう。街道筋から離れていたとは、あまり思えないんですが・・・

  • 2015/11/11(水) 08:56:08 |
  • URL |
  • ふぐじょ #-
  • [ 編集]

中央左側に「鎌原氏」とあります。No.1と振ってあります。

  • 2015/11/11(水) 09:09:40 |
  • URL |
  • 早川由紀夫 #eWKQhjJU
  • [ 編集]

字が潰れていて見えませんでした。なるほど改めて見たら読めました。

  • 2015/11/11(水) 15:45:15 |
  • URL |
  • ふぐじょ #-
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