早川由紀夫の火山ブログ

Yukio Hayakawa's Volcano Blog

鎌原村散歩

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天明三年七月八日(1783年8月5日)に浅間山から流れてきた土石なだれに鎌原村は、鎌原神社(左の白丸)を除いて、すっかり埋まった。観音堂(右の白丸)に至る石段50段を駆け上がった93人が助かって、477人が土石に飲まれた、とされる。

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観音堂の石段に向かって左側に十王堂と呼ばれる粗末な倉庫がある。その内壁に、興味深い木板が無造作に釘打ちされている。

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その木板には、噴火から37年後の文政三年八月(1820年9月)に寒念仏を奉納した女性15人の名前が、冒頭に書かれている。15人のうち「ふよ」と「さよ」を、天明三年(1783年)生存者記録の中にみつけることができる。ふよは死んだ萬之助(30歳)の妻だったから噴火当時20代だったろう。その37年後は60歳を少し超えた年齢だったはずだ。

噴火災害を生き延びた老女たち15人が観音堂に集まって、供養のための念仏を唱えたのではなかろうか。だからこそ、封建社会では下位に置かれた女性たちにもかかわらず、冒頭に名前が掲げられているのだと考えられる。女性生存者44人のうち名前が記録されているのはわずか10人に留まる。34人の名前はわからないから、「ふよ」と「さよ」以外の13人も生存者だったと考えておかしくない。

このときの寒念仏が、鎌原村にいまも続く回り念仏の始まりだとみられる。天明三年噴火死者を供養するために女性たちだけが念仏を唱える。ごく最近まで家々を回って毎月2回開かれていたが、いまは村内集会所で開かれている。

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鎌原村を南北に貫く通りに出ると、浅間山が見える。鎌原村は、噴火のあと、幕府の命によって前と同じ場所に同じように再建された。

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鎌原神社は周囲より3メートルほど高くなっている。土石なだれはこの小高い丘を左右に流れ分けた。

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丘の一角には土石なだれを免れたケヤキの大木がある。他にカツラ、カエデ、モミの大木もある。

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「右すかを、左ぬま田」と書くこの道しるべは、延命寺の門柱の欠片を利用している。右上が欠けた門柱本体は土石なだれに押し流され、矢倉駅そばの吾妻川河原で明治四十三年にみつかった。いまは観音堂の境内に置かれている。

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通りをさらに北に進むと、小さな森がある。ここも土石なだれに埋め残された場所である。

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田んぼの中に鎮座する「こじはん石」は、土石なだれに運ばれてきた黒岩だ。他にどこに黒岩があるか、こじはん石にのって周囲を見渡してみよう。

コメント

片貝家ノ下遺跡

半年ぶりに秋田の鹿角、花輪にある別宅へ帰省しました。その機会を利用し大館郷土博物館を訪れ、片貝家ノ下遺跡調査結果の発掘写真展を見たところ、早川由起夫先生が撮られた写真の数々に感激、先日のツイッターで「十和田湖から1万5000年前に出た八戸火砕流の分布、この中にいま200万人が住んでいる。 3万年前を無視するのが社会通念だとすると、1万5000年前も無視する社会通念なのだろうか?いったいどこまで無視するのだろうか?」ーーと、

火山について正しい知識、火砕流について正しい知識を持てば、私たちは何万年後か或いは近い将来おきうる可能性のある破局的な噴火に対しての心の準備ができると考えている。その研究をし続けている早川先生に、秋田県人の一人として感謝の気持ちでいっぱいです。先生の発信しているメッセージを私は町の周辺の人たちには確実に伝えていく努力を欠かさない決意をしている。
自費で頑張っておられるようなので特に心に響きました。

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